Oh,Troubles! 翼友12号 昭和61年卒 岩崎政和 今回の記事は私の現役生活について語ってほしいとの ことだったが、皆さんとしては「せっかく岩崎が書くの だから」と、やはりトラブルを中心とした話を期待して いるに違いない。私の現役生活をそのまま語っても同じ ことだという人々もいるとは思うが、ともかく今回は紙 面の都合上、57・58両年度の航空部の出来事の中から 私の関わったトラブルの数々を紙面の上で明らかにして いきたい。 ○57年度・狂乱暴走編 私は昭和57年4月に18歳と8カ月で入部した(別に年 齢はごまかしていない)。ところが入部当初から僭越野郎 と思われてしまったのである。というのも初めての五月 祭合宿で雨が振り、例によって布団蒸しが始まったとき だった。店網さん(59卒・当時3年生)が蒸されている 所へ、一年生の中で唯一私が、「コノヤロー」と叫びな がらフライングニードロップをしてしまったのだ。これ は別に他意のないかけ声で、生来のノリの良さが表に出 ただけだったのに、以来周囲からは後ろ指をさされつづ け、いじけて初代”歩く僭越”と呼ばれることになった のである。決して59年入部の○○君のように生来の気質 ではなかった。それにしてもあの時、他の一年生が一緒 に飛びかかってくれなかったのは残念だった。”不信の 57年入部生”の始まりである。 7月の妻沼合宿は天候不順で殆んど飛べなかったが、あ る晩飛べない憂さ晴らしにと、一緒に合宿をしていた学 習院大学と合同で花火大会が催された。その時、学習院 の男子部員1名(1年生)が、ふとしたきっかけで狂乱 した連中の餌食となりムカれてしまった。これだけな らいつものことなのだが、問題は、よく観察するとムイ た側が全員東大の連中しかも殆んど1年生(即ち私の同期) ばかりだったことである。しかしその場ではまだ誰も事 態の大きさを認識していなかった。 同じ晩、学習院の部屋の前を通りかかった私と南雲君 (同期)は、部屋の中でスイカを食べている人々を見て、 「あ、スイカだー。」と物欲しそうな顔をしてしまった。 すると部屋の奥から、「よかったら一緒に食べませんか?」 というお誘いがあった。私の「いえいえ、とんでもない」 と、南雲君の「はい、いただきます。」」という返事はほぼ 同時だった。南雲君はいそいそと部屋に吸い込まれてい った。「学習院っていい所だな」と私は思った。が、次の 瞬間南雲君のまわりにはピラニアと化した学習院の部員 があった。私は東大の部屋に向かって逃げながら思った、 「学習院って恐ろしい所だな」と。数分後、ショックの あまり焦点を失った南雲君が、殆んどの衣類を手に持って 帰ってきた。この晩結局学習院はスイカを分けてくれた のだが、南雲君は食べなかった。現役の諸君も、他校の 人をムクときと、スイカをもらうときはくれぐれも状況 判断を誤らないように(そこまで愚かなのは61年卒だ けだって?)。 (中略) ○58年度・無知無能脱線編、そして悲壮 五月祭合宿のある日、私はピスト上空を15m以上の高 度で通過する、いわゆる”サヨナラロング”をしてしまっ た。当然ピストは私に手を振っていた。それに応えて私 も進入中に手を振ってしまった。結果は腕立て50回と、 北ピストから歩いて水を汲みに行くという名誉であった。 どうもお調子者はパイロットに向いていないらしい、とこ の時思い始めたのだが既に私は駒場主将になっていた。 8月、壁のないサウナ風呂と呼ばれる夏の氏家に再び やってきた。滑走路上で麻薬中毒患者と見間違えるほど 疲弊したショルダーマンを見かねた梶田主将(60年卒) は、昼休みに川まで水浴びに行く許可を与えた。 しかし、当時既にMr.Troubleと呼ばれていた私の手綱 を少しでも弛めたのは彼のミスであった。滑走路上とは 別人のような元気さではしゃぎまくった私は、川底のガ ラス片で足を切ったことにしばらく気づかなかった。そ の結果、後で私は機体押しから外され、ピストで記録を 行うという名誉に与かった。「何のために休息させたと 思ってるんだ」と、再び後ろ指をさされながら…。 以後、毎年夏合宿で水浴びが許可される度に、「川底 のガラス片には気をつけろ」と私は呼びかけている(し かし、どうしてもこのとき笑い者になってしまう)。 もう一つ夏合宿。ある晩、蚊取り線香を任された私は、 消灯後も調子に乗って線香を積み重ね、通称モクモクと 呼ばれる焚き方をしていた。要するに2〜3cmの線香数 十本が一つの皿の中で燃えているわけで、発生する熱は 相当のものとなり、陶器の皿で行うと何が起こるかは以 下に説明する通りである。突然パキッと音がして皿が砕 け、線香が飛び散る。暗い部屋で見るとまるで、京都の 大文字の火送りの如く美しい。そして日中の暑さでへば って寝ている人々を起こす。灯りをつける。飛び散った 線香を回収する。水を汲んできて火を消す。焦げた布団 を外に出して、公民館長さんに謝って、貸し布団屋さん に弁償して、それからそれから、あーあ。 そして、今思い出すと悪夢のような春合宿を私は迎え た。私が主将として行なう初めての合宿だった。 銅章トライのブラニクに乗り1時間15分飛んで帰っ てきた私は、場周に入ってもツイン2との同時進入に気 付かず、しかもあまりに高いベースレグだったため高度 処理しようと第4旋回を通常とは逆に270度旋回して しまった(折悪くもそこは強いサーマルであった)。そ の後無線の混乱もあり、既にツイン2は着陸してショル ダーにあると勘違いして、私は中途半端なロングで着陸 してキャノピーを開けた。ショルダーにツイン2が見当 たらないので不思議に思った私は翼端の牧野君(58年 入部)にツイン2の場所を尋ねた。彼が答えるより早く、 ツイン2がブラニクのすぐ左側、殆んど川の上を高度2m ぐらいで通過し、進路を滑走路上に戻して無事着陸した。 私はやはり”絵に書いたような馬鹿”だったのだ。 同じく4月7日、。。。。。(以下略) -------- この記事は、原著者の許可を得て、taka@siliconが編集を行ないました。 あまりに過激で公開できない部分はすべて削除させていただきました。