飛行機の思ひで 翼友11号、 昭和15年卒 磯久 氏(準備中) けれども、小さい頃母から間かされた話が、今でも頭中にこびりついて居るのに 気がつく事がある。私が生てまだ幼い頃、フランク・チャンピオンと云う飛行士 私の郊里へフライトショーをやりにやって来た。とこがショーの最中に飛行機が 墜落してチャンピォンは亡なってしまった。私の邪旦を流れる助JIlの堤防の 上にフランク・チャンピオン殉難の碑」と書かれた大きなの碑が趨かにその墜落 場所を望むかの様に高々と鷺てれて居る。私は后年母から、その墜落時の話を間 かさた事があるが、幼い私を抱いた母は家の前で祖母と一にそのフライトを見て いたが、飛行機が墜落を始める、大急ぎで私を祖母の乎に托して、落ちて来る飛 行機方向に走って行ったそうである。それ以外にどんな言を母から間いたのか、 今では私は憶えて居ない。だけも后年の私の頭の中には、墜落して来る機体から 分離た翼が桁を軸にしてくるくる回転し乍ら、或は又木のの如く左右にサイドス リップを繰り返しながら落ちてる姿が何時の間にか、当時赤坊の私の網膜の上に 実際焼付けられた光景の如く映し出される様になってし去た。 中学生になってから、私は家の向いにある高さ300米の山脈の山の上に時々登 った。山の南斜面の裾には、脈に沿って狭い平野があり、その向いは外海になっ てた。海から吹きつけて来る風が、この山脈に当ると、がよく山脈に沿って飛来 し、山脈の端にひらけた内海湾の上をグライデングし乍ら飛んで行った。 私はこの頃から飛行機に宋って飛んでみたいと思う様なった。其頃私は何かの雑 誌で「飛行家轟成講議録」云う広告を目にとめた。私は父に頼んでその講議録を ってもらい度いと思ったけれども、どうしてもそれをに出して言うだけの元気が 出なかった。仕方がないの祖母に頼んでやっと注文する事が出来た。居いた講議 を閉けた時、真先に目についたのは、空冷式星型エンンの縦断面図であった。私 はそれに印刷された燃科系、潤滑系統の目の党める様な赤と黄色を今でもよく党 て居る。 払は高等学校時代は、他の競技部に入って居たので、空研究会の催しのビラは目 につく事はあったけれども、二加入Lて練習に参加するという事は出来なかっ た。 行学校でやっと待望のグライダ練習をする事が出ヨになった。プライマリー機に 依る初歩練習からで,が、操縦席に坐り、ベルトを滞め、操縦桿を握り、舵、エ ルロンを動かしてみた時は、やはり流石に妾思いがした。 当時の学生杭空聯盟は、朝日新”社の後援で、クダー及び飛行機の裸縦練習を行 って居た。練習の‡格検査が大審院で行われた時、私は一寸鷲いたけ†どうにか 無事通運する事が出来た。棟習は羽田飛†行われたが、当時の羽田は、新間社の 連絡機の格‡あり、複葉の遊鷺飛行機がのんびりと飛んで居て、ま国内定期杭空 のダグラス機の姿を見る位であっナ習機は陸軍の九五式三型と云う復葉機であっ た。占教官同采で飛行場一周の離着陸練習であったが、イ私は生れて始めて一寸 した飛行機事故に迫遇した。同乗、大森に向って滑走路離陸上昇中、高度340 カったであろうか、飛行場周辺近く迄来た時、エンラ右上部に黒い煙がパッと楊 った。同時にプロペラ¢iがパタツと止まってしまった。機首の向うには立1だ 大森の家並みが見えろ。危い/私は本能的に手月iを全部ゆるめた。機体が一瞬 ほんの少し左右に傾Lに思った。それから機首が僅かに左に振られたのカた。機 は再び静かに地上に着陸した。前方を見れ1“米先には、密集した大森の家並み があった。 練習時問が20時間近くなった頃、私は計器飛行し野外飛行を心待ちに待って居 たが、突如として勃頚太平洋戦争の為、私達は牛業時期を早められ、私¢練習者 としての道には終止符が打たれた。▲ソアラーの7ラッタリング 学生航空聯盟での霧峰グライダ合宿練習には一度Lた事があるけれども、体調を くづし残念乍ら最笹習することが出来なかった。私は其時の合宿で曳伺中のソア ラーが起した主翼のフラッタリングの光芳めて見た。主翼にストラットセ持った ソアラーでオと思うが、曳行機に引かれたソアラーが霧昨‡山項をして、地上で 見守る人達の前を高度200米位で飛行居た時、突如として物凄い主翼のフラッ タリングカた。曳行機の後流の中に入って、どうしたはずみて )・振動を起した王XがJあれよ」とZ,同U黙く入さ 長動に変り、ストラットのヒンジ位置をノードにして、ょ文字通り楳々の羽の如 く羽博き始めた。私は一瞬空iチ解を起すのではないかと思ったが、操縦者はや がて〒索から機を稚脱させ、校は別に変った様子も無く静ニグライデングを統け 下の草原に着陸した。後で深い票に置かれた機体に私はそっと近づいて見た。両 コの「レロンがだらりと垂れ下り、片嚢を地について休らっ審るその姿は、私に は何とも云えずいとおしいもののに思われた。 ▲グライダー免許試験のこと 大学の三年の事であったろうか、夏休みに滑空±の免を取らないかと云う誘いを 受け、霧蜂に出かけた。試コースは出発点が山項で、車山に向ってウインチで巻 陽げられ、180度旋回してもとの山項に着陸する=一スあった。機体はセカン ダリ機で、その名をrO」と呼れて居た。何のめぐり合せか最初の番が私に廻っ て来,私は当時、羽田の学聯飛行棟習で、やっと18時間程の飛行場周辺旋回練 習をしている頃であった。ウインで車山に向って引き上げられたr鳶jは180 度旋同し、山項に向って帰って来た。山項が近づいた時、私はし高いなと思っ た。どうして高度を下げたらよいかとう思いが一瞬頭を掠めた。だが私は桔局操 縦桿を改め固定した位置に握りしめた。山項を越してその鮭進んも斜面の培にあ る防火林迄の間には何処かに必ず着陸る。斜面に沿って滑空している間中、私は 意識を研ぎまして着陸の瞬舜問を待った。突然ショックを感じた。の瞬間私の上 半身はがくんと前のめりになってしまっ。機体がストップして居る。私は私の肩 を締め付けてたバンドが切れて上体が前倒しになって居る事に気がいた。腹部の バンドが其住になって私の身体がやっとえられて居た。私は切れ残った片方の肩 バンドを外し、一体何が起ったのだろうと思いながら、操縦席ナセから地面に下 りて、ナセル下側を覗き込んでみた。キビンの下側の山膚から小さな岩の頭が出 て居た。そしその頭部には、何かに衝突して削り取られた白い岩膚痕跡が見られ た。私はナセルの下側を覗き込んでみた。セルのキール材に取り付けられた曳行 索掛金具の先端は白色の岩の粉が附着して居た。やっと私に事情がの込めた。地 上から30梅程頭を出した岩の先端に索端掛 支持されたまま、コ端を地面につけて居た。私は余事に荘然としてしまったr− 一 後日私はその岩を深して歩いてみたが、心党えのにはそれらしいものは何も見当 らなかった。私は今1グライダーの格紡内庫の傍を通る時、そっと中を覗きでみ る。其時格祐庫の中に置かれ翼桁の折れたセカリ機の姿を思い浮べると、私は戒 戊に何とも申訳のな乍ら不思議な心の安らぎを党える。▲B29,,のこと 学校を牛業し、短期現役終了後、中島飛行機太田所に復帰した私は、暫く動力設 計の班に勤務したカョもなく試作運線工楊に配属になった。何も仕宰は云されな かったけれども、私は其匁処で生れて始めて、機に搭戟された大馬力の発動機の スロツトルレバーる恐る握った。 其頃太田市の上空にB29が単機飛来する様になっ超か蒼空の奥高く、魚影とも 見えろ白い透明な物仲っくりと通り過ぎて行く。その様な事が二回か三亘た後、 或日工場内の拡声機が突如として、Bの編防方より太田市の方向に進撃して来る 事を告げた。ユはすぐに讐戒体勢がとられ、ラジオは涜いて従業長外退避命令を 告げた。私は大急ぎで軸場を見渡し、りの退避門から、予め定められた方向に田 圃の中1二道を求めた。苅り取られた稲株の残った田圃の中¢を私は大急ぎで工 場と反対方向に走り去って行っ九しでも遠方に遠ざかって居たいと云う思いで一 杯てた。私はふと顔を上げて左の上空を仰ぎ見た。思〓けず其処には大空を一杯 に埋めつくして、B29のメ音も無く工場上空を目指して飛来して来て居た。プ は最早やそれを迎え撃つ味方戦閾機の一機の姿も年た。今迄偵察に単機飛来した Bとは打って変って、度を飛ぶ大きな白銀のB29の大群が、大空を圧すぞり、 隊伍を組んで静々と進んで来た。突然ジェリフシュの下腹部にぽっかりと黒い孔 が開き始めた。月の扉が蘭き始めたのだ。それは想像〓しなかった≒ピードで左 右に閑いて行った。黒々と大きな矩形∂胸に蘭1ナたまま、ジェリフィッシュは 成風堂々全tて襲いかかって来る。いけない。爆弾が投下され々だ。私は慌て、 一瞬あたりを見廻した。何処にも讐 惜 ;裂して居る様な甲高い音を続けて間いた。私の身の廻の田圃がゆらゆらと揺れ 動くのを二、三度感じた。そrから暫くして、私の肩の上に何かボトンと落ちて 来たのがあった。最初は一瞬炸裂保弾の破片かと思って、ょっとしたが、次の瞬 問柔い感触だったのに気付いて、圃の土塊である事が判りほっとした。あたりが 静になた。私は溝から身体を引き起すと、後も見ずに工場と対方向に一目散に定 って行った。田面の向う側にある道沿いの森蔭で私はやっと職場の人連に出会っ た。 爆撃を受けてから試作関係の職場は、前梼市に疎開し。運線工場は市をはなれ て、新しく造成されて居た飛楊の中に職場を変えた。格納庫が作業場に充てられ た。し乍ら艦載機がこの内陸迄飛んで来て、ロケット砲弾機銃の攻撃を加える様 になったので、其頃の主作業とった戦間機の整備運転作業は飛行場周辺の木蔭 で、切取って来た竹笹を覆などにして行われた。 丁度その頃、・飛行場格祐庫内の事務所に折り畳まれた厚い青図が届けられた。 広げてみると長さ二間もあると思われる様なジェットェンジンのフルサイズの図 面あった。私はヰの青図を事務室の壁にはりつけ、土間並べられた机に座った職 場の主だった人連を前にして、は私が理解する事が出来る限りのジェットエンジ ンの造機能を一生懸命説明した。 丁度その頃立刀1陸軍抗空技術研究所と、新しい排気タビンの実機試験によるデ ータ測定に関する会合が太田クラプの一室で行われた。測定個所についての打合 せ行われて居た時、放送があるので急運下の広間に集ま様にとの連絡があった。 集まった人連は、スピーカーら流れ出る音声に耳を傾けた。私には始めは何の放 送行われて居るのか全く様子が判らなかった。そのうち、それが終戦の大詔を告 げられる放送である事が蹄気らやっと判り始めた。戦争は終った。…・ 私は上司と一緒にクラプからのだらだら坂を下りて街方に向って歩いた。道路の 傍に石ころがあった。私連その上に腰を下して暫く休んだ。rしっかりしなけれ ばけませんねd私は自分自身に言い間かせる様に眩いた。人は又立ち上って街に 入って行く道を歩き始めた。 し)白○呼7入り柑1子1工刊耽i=が矩しくなつU呂る郡うゲがめ アランク・チャンピオン之碑 チ氏客臓来朝ス今佛国モラアンソル=エイ型ノ・爵力牽引式阜葉枯風号デ操縦シ テ持津国鴫尾うシ帝都二向フ途ニシテ止ム後鳴尾二於テ更二斯初精奥デ究メ今秋 十月高知市森田良吉氏ノ○二応S日市外鴨田村=飛靭ス此日天気浦穏規者廿萬抄 七規宛モ天烏空デ行キ大二騒ルガ如シ下高矢上空二翻靭シテ後鴨田ノ中天二翻リ 連続三度尚一ビセントシテ急進機首デ上ゲシー舜俄然機ノ左=レ旋転墜落ス其高 度四千尺此間氏ハ咄瑳発動機レ転デ止メ且ツ地上讐戒シ、応急最后ノ処置デ尽‡ 悲肚ノ死デ遂ク、時二三時二十七分享年三十二 附,B 二会スル十万運骨デ故国二送リ其半プ止ム。“”” 後続の碑文中にチャンピオン氏はカリフォノレニフスアンぞルス市に住し、夫人 及び一女があった卒カれて居る。